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秋田地方裁判所 昭和36年(わ)125号 判決 1964年3月23日

被告人 平原寿太

明四一・一・七生 国家公務員

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は別紙のとおりである。

第一、背任罪について、

一、別紙記載の公訴事実第一(予備的訴因を含む)について検討する。

被告人が農林技官であつて、昭和三五年四月一日以来、男鹿市船越八郎谷地所在仙台農地事務局八郎潟南部干拓建設事業所長として勤務していたこと、その職務権限が公訴事実記載のとおりであつたこと、右事業所の監督の下に国有財産浚泄船「呑竜」につき業者の請負で整備工事が行われ、その結果多量の鉄材等の廃品が産出されたところ、被告人は昭和三六年三月下旬頃、かねてから右事業所の上級官署である秋田市所在八郎潟干拓建設事務所などに出入りして廃品の払下をうけていた昌和株式会社の秋田出張所員であつた黛武信から右廃品の払下方の申出をうけたので、その頃これを承諾し、右廃品を同人に売払うことにしたこと(但し、黛は昭和三五年末頃右会社を退き以後独立して金属回収業を営んでいたが、被告人はこの事実を知らず、右払下の申出は右会社の出張所員としての資格でなされたものと信じ、従つて右売払いも同会社に対してしたものと思つていた。(記録一六七八丁))、よつて黛は同年四月初頃から同月二二日頃までの間数回にわたり右事業所内において同事業所機材課員岡橋要などの立会の下に右廃品の計量をし、その合計重量が一八噸七二三瓲あるものとして、右岡橋等より引渡をうけ、その代金として右引渡後の同月二四日頃金二三万四三〇円を国の才出入事務を代理する日本銀行秋田支店に支払つたこと、なお、本来被告人が専決で払下処分できるのは、廃品一件の価格が五万円以下の場合に限られており、本件廃品の価格はこれを超えていたにもかかわらず、被告人は、自己の専決でこれを黛に払下げ、同月二二日頃部下職員に命じて右払下関係の書類を作成させるに当り、特にこれを五件に分割し、形式上はその各一件毎についてみればいずれも五万円以下であるようにしたことは本件証拠上明らかである。

二、まず検察官は、「被告人は、右廃品の払下にあたり、その実際の数量は約二七噸であつたのに、右黛の利益を図る目的をもつて、これを約一九噸であるとして右黛に払下引渡し、もつて国に対し右重量の差約八噸金額にして約金九万六千円相当の損害を加えた。」旨主張する。

被告人が黛に対し(但し被告人は昌和株式会社に対して売払うものと信じていたこと、前述のとおり)前記廃品を売払うことにしたこと、右廃品が同事業所機材課員岡橋等の立会の下に計量され、その重量が一八噸七二三瓩あるものとして黛に払下引渡されたことは前述のとおりであり、証人岡橋要、同小玉国雄、同小谷通郎、同黛武信(第一回)の当公判廷における各供述記載、右岡橋の検察官に対する供述調書二通、右黛の検察官に対する六月三日(昭和三六年、以下同じ)付供述調書謄本などによれば、被告人は、右廃品の計量の仕事を岡橋等に任せて行なわしめたが、その計量は必ずしも正確には行われず、例えば廃品中容量が大きすぎてそのままでは看貫することができないものについてこれを適当に細断して看貫するということをせず、単なる目測でその重量を決めるというようなずさんな方法であつたし、そのうえ右岡橋は右計量の立合をした際右黛から内密に金銭を貰つたりなどしたこともあつて、結局右計量の結果は実際の重量よりも相当下廻るものであつたことが窺われ、しかして前記払下代金は右計量の結果を基準として決められたことは証拠上明らかであるから、右廃品の払下により不足の重量分に対する代金額相当の損害が国に生じたことはほゞ認められるところである。

しかしながら、右岡橋等がなした計量の方法が右のようにずさんなものであつて、前記一八噸余という計量の結果が廃品の実際の重量より下廻つていたとの事実、或いは岡橋等が右計量事務に関し黛から金銭を貰いうけるなどの不正をしていたとの事実を、当時被告人が認識していたということは本件一切の証拠をもつてしてもこれを認めることができない。

もつとも被告人の検察官に対する六月一三日及び同月一五日付各供述調書謄本(記録一七二七丁、一七四八丁裏)などには、右廃材の計量が岡橋等の立会の下になされることにより黛に有利なように若干の誤差が生ずることを予測しており、かつ一八噸なにがしという数量は実際よりも一、二噸下まわると思つていた旨の供述記載があるけれども右供述記載は被告人としては、払下げの際には、通常の事態としてある程度計量に誤差を生ずることがありうるということを述べたにすぎないと思われるし、一、二噸という数量も、単に廃材が約二〇噸あるという被告人の目測に基くものにすぎず、しかも被告人が自分の目測を相当程度正確なものであると思つていたか否か甚だ疑しいものであるから、被告人としては、一八噸なにがしという数量を知つた場合には自分の目測が実際よりもやや多過ぎたと思う位のことがせいぜいと考えられる。更に、前記黛の供述記載(記録八一四丁)、被告人の検察官に対する供述調書謄本(記録一七二六丁裏)、被告人の当公判廷における供述(記録一三九九丁)などによれば、被告人は当時右岡橋等に対し計量を正確にするよう注意を与えていたほどであり、また右計量に先立つて計量し易いよう右廃材を切断するよう命じたこともあり、被告人としては岡橋等が不正な或はずさんな方法をとることは予想だにしなかつたところであり、右計量の結果は信用すべきものと思つていた(記録一六四九丁裏)と認められ、以上を考え併せると被告人の前記供述記載はいずれも信用し難い。しかも証人松木英三、佃春香、友宗忠雄の当公判廷における証言又は証言記載、被告人の当公判廷における供述又は供述記載によれば、払下廃品の計量事務などは事業所長たる立場にあるものの直接関与するところでなく、右のような機材課員の担当職務としてこれに任せられるのが通常であることが認められ、そして右の如き事務遂行の実情は、後記認定の右事業所組織、事務量などに照せば当然許されるものであり、被告人もそのように考えていたものと思われる。

然らば、たとえ右岡橋が自己の任務に違背して不正な或はずさんな計量をしたとしても、被告人がその事情を予め知らなかつた以上、計量の仕事を岡橋に任せたことにつき被告人に任務違背の認識があつたとはいえないし、そもそも岡橋に任せたこと自体、被告人の任務に違背する行為には当らないものというべきであるから結局右廃品の払下において被告人が黛の利益を図る目的をもつて「その任務に違背し」実際の重量が約二七噸であるのにこれを約一九噸であるとして払下引渡したなどといいえないことは明らかである。

三、次ぎに検察官は、「予算、決算及び会計令によれば廃品の引渡は、払下代金の完納があつた後でなければ、してはならないことになつていたのに拘らず、被告人は黛の利益を図る目的をもつて、黛から右払下代金の完納がないうちに部下職員をして右廃品を黛に引渡させ、もつて国に対し右払下代金の取立不能なる財産上の損害の発生すべき危険を生ぜしめた。」旨主張する。ところで会計法上廃品の引渡は払下代金の納入後になされるべき建前であることは証拠上明らかであり、本件においてこれが前後し払下代金の納入前に廃品の引渡がなされてしまつたことは前記認定のとおりである。

併しながら前記証人松木英三、友宗忠雄、佃春香及び被告人の当公判廷における供述又は供述記載等によれば、払下廃品の引渡に関する事務や払下代金を納入せしめることに関する事務も、前記計量の事務と同様に、同事業所機材課員や庶務課員などに任せて行わせるのが通常であること、本件においても被告人は直接これに関与せず、これらの事務は一切機材課員などに任せて処理せしめていたことが認められ、(記録一六八〇丁裏)その間被告人がとくに黛の利益を図る目的をもつて右廃品の引渡や払下代金納入の時期などにつき殊更前記会計法上の建前に反する取扱いをなすよう部下職員に命じたり指示したりしたというようなことは本件一切の証拠をもつてしてもこれを確認することができない。

もつとも、被告人の司法警察員に対する五月三一日付(八枚の分)供述調書謄本等によれば、四月一七、八日頃右搬出の件に関し、野中管理係長から被告人に対し廃品の一部を黛に対し引渡してもよいかという趣旨の伺いがなされ、被告人が同係長に対しこれに同意する趣旨の返事を与えたことのあつたことが認められる。しかし被告人が右のような返事をした際の気持などについて、被告人は当公判廷において、「当時自分は廃品の引渡に関する事務などは一切庶務課の方に任せていたので、同課野中管理係長から右のような伺いをうけた際、同係長としては現場の取片付その他の関係から廃品の引渡しをしてやる必要があるとの意向をもつているように思われたので、とくに現課のそのような意向に反対するまでもないと思い、前記のような返答をしたのである。自分としては払下代金の納入の手続も自分が決裁すればよい程度にすんでいるのだらうと思つていた。」旨供述しており、右供述は現場の状況が当時非常に混雑していて被告人自身としても廃品の早急な処理を望むほどであつたことは後記認定のとおりであるし、被告人が右引渡事務など一切を部下職員に任せる態度でいたことは前記認定のとおりであるから、被告人の当時の心理を卒直に述べたものと認めるのが相当であつて、右供述を斟酌すると、被告人が野中係長に対し前記のような返答をしたことから、直ちに被告人が殊更黛の利益を図る目的をもつて廃品の引渡を払下代金の納入前にするよう指示したなどとみることはできないものというべきである。

また、(一)被告人の検察官に対する六月一三日付供述調書謄本黛の検察官に対する六月三日付供述調書謄本中には、被告人が最初黛から本件廃材の払下方の申出を受けた際、黛に対し直ちに右廃品の引渡をしてやるという趣旨のことをいつた旨の供述記載、また(二)前記岡橋の当公判廷での供述記載中には、黛が、被告人から右廃品の払下の承諾をえた後に右廃品中容量が大き過ぎてそのままでは運搬することのできないものについてこれを細断するため、自動車に切断機を積んできて右の切断をし、それを終えた後、右自動車の便を利用して廃品の一部を搬出しようとしたところ、右岡橋からこれを断られたこと、その際黛が岡橋に対し、被告人から搬出の承諾を得ているというような趣旨のことをいつた旨の供述記載があり、以上(一)、(二)の各供述記載は、一応被告人が、黛が代金納入前に廃材を搬出することを容認していたのではないかと疑わしむるものである。しかしながら右(一)についていえば被告人の当公判廷における供述(記録一四七三乃至五丁)、及び司法警察員に対する五月二六日付及び同月三一日付(八枚の分)各供述調書謄本などによれば、被告人が最初黛から廃材払下の申出を受けた際同人に対し承諾を与えたのは、単に廃品の払下をしてやるということと、計量のためラダーを切断してもよいということだけであつて、被告人が同人に対し払下代金の納入その他の所定手続をふまず直ちに廃品の引渡をしてやるということまで承諾したものではないと認められ、この認定に反する右(一)の供述記載部分は採用できない。従つて右(二)の供述記載についても仮りに右岡橋証言がそのまま信用できるとし、黛が岡橋に対し被告人の承諾云々ということをいつたことがあるとしても、それは黛が勝手にそのようにいつただけにすぎないと思われる。

さらに証人松木英三の当公判廷における証言記載中には、被告人が同年四月中、本件廃材の置かれていた現場を視察した際、松木機材課長に対し廃材を黛に引渡してもよいではないかというような趣旨のこと及び右廃材引渡について被告人が責任を負うからという趣旨のことをいつたとの証言記載、又松木英三の検察官に対する六月九日付供述調書及び岡橋要の検察官に対する五月二四日付供述調書中にも右松木証言を裏付けるような趣旨の供述記載が散見されるけれども、(記録五一五、六六八丁等)これらの各供述記載は、この点に関する被告人の検察官に対する六月一三日付供述調書中の供述記載及び被告人の当公判廷での供述(記録一七二四丁裏、乃至一七二五丁、一五七〇丁裏)と対比して容易に信用することができない。右松木の証言記載によつても、被告人が松木に対し右に摘示したようなことをいつた時期というのは黛が本件廃材の運搬をしはじめる前ではなく、既に黛が松木の許可をえて数回廃材の引渡をうけた後であつたというのであるから(記録五〇七丁裏、五〇八丁裏、五一一丁等)、かような時期に被告人が松木に対し黛に廃材を引渡してもよいのでないかというようなことを言つたというのは些か不自然であり、又右証言記載中の、「責任を負うから云々」というのも一体如何なることを意味するのか、松木として右言葉をどのような意味に受取つたのであるかなどについてこれを明かにする何らの説明もなされていない。当時の事情から推察すると或はラダーの切断について責任を負うということが被告人の脳裡にあつたかも知れないのである。とかくこのような調子の良い言葉尻を捉えることは真相を誤つて伝えられ易いものであるから前掲松木、岡橋の各供述記載を検察官の主張を裏付ける証拠としてたやすく採用することはできない。

四、なお検察官は、右公訴事実中において、「(イ)廃品の払下をするには正式には、これについて不用処分決定、売払処分決定及び売払契約などの手続をとつてしなければならないのに、被告人はこれら正式の手続をとらないで本件廃品を払下げたが、これはその任務に違背したものである。」旨、或いは「(ロ)事業所長としてその専決で払下げ得るのは、廃品の価格が五万円未満の場合に限られるのに、被告人が黛に払下げた本件廃品の価格は五万円以上であつたから、被告人はその払下権限を逸脱して払下げたのであつて、これまたその任務に違背したものである。」旨主張する((ロ)については論告、記録一五二四丁参照)。

しかしながら、背任罪は財産犯罪であるから、背任罪を構成すべき任務違背があつたといえるためには、他人の事務の処理者として当該事情のもとに当然なすべく期待された行為をしなかつたというだけでなく、更にそのような行為をしなかつたことにより通常その他人に財産上の損害を加える結果となる場合であることが必要であると解すべきであり、これに反して、通常かかる財産上の損害を加える結果となるおそれのない単なる手続的な法規等の違背があつたというだけでは背任罪における任務違背があつたとはいえない。

これを本件についてみると右(イ)又は(ロ)記載のような法規違背行為と本件公訴事実に記載した一定の財産上の損害又は損害発生の危険との間には事柄の性質上必然的な因果関係は認められないし、その他に右(イ)又は(ロ)により国に対し何らか財産上の損害を加える結果になることを認むるに足る証拠もないので、結局、右(イ)又は(ロ)記載のような法規違背行為は、背任罪における任務違背には該当しないものというべきである。

のみならず右(イ)についていえば、被告人の司法警察員に対する五月二五日付二六日付二八日付及び六月三日付各供述調書謄本、証人友宗忠雄、同高村敏夫の当公判廷における各供述、その他の証拠によれば、当時南部事業所には機材課、庶務課、工事課の三課、六係があり、その職員数は約六〇名ないし八〇名を算え、廃品払下に関する検察官主張のような手続や事務は、すべてこれらの課員が行うのが通例であつたこと、当時同事業所の事務量は予算面でいうと農林省管下の他の事業所に比して約五倍ないし二〇倍もあり、これらの事務を統轄する地位にあつた被告人は甚だ職務繁忙であつて、日常職務の遂行にあたつては大綱のみを把握し、細部の事務や手続上のことは一切部下職員に任すに甘んずるという方針で臨んでいたこと、本件廃品の払下においても被告人は部下職員に対し一々明示的な指図はしなかつたが、右不用処分決定及び売払処分決定書の作成その他払下についての所定手続はすべて大した遅滞もなく部下職員によりとられており仮りに多少の遅滞があつても計量さえ正確であれば国に損害を受けることはないものと思つていたこと、然るに部下職員においても当時会計年度の切替の時期に当面して極めて忙しく、右払下に関する正式な手続を遅滞なく行うことができず、そのためすでに廃品の引渡がなされてしまつた後の同年四月二二日頃になつて右事情を知つた被告人の指示督促により慌てて関係書類を整備することになつたことが認められ、右のような事情に被告人の当公判廷における供述(記録一四一四丁など)を合せ考えると、被告人には右(イ)の点につき任務違背の認識はなかつたものと認められる。又(ロ)についても、被告人の検察官に対する六月一三日付供述調書謄本、松木英三の検察官に対する供述調書謄本二通等によれば、被告人が当時右廃品の価格が金五万円を超えるものであつて、従つて、会計法上の建前からすれば秋田市所在の八郎潟干拓建設事務所長又は農林省本庁にその処理方を申請すべきであり、これを被告人の専決で黛に対し払下げるのは形式上権限逸脱であることを認識していたことは明らかであるが、当時南部事業所内の岸壁には前記呑竜の外に多数の船舶が繋留されてその修繕工事などが行われていて(記録一六五七丁)本件廃品などが右岸壁附近に不完全な整理のままに散積され、(記録一六四七丁裏)その一部が右岸壁に通ずる右修繕工事の請負業者の使用する道路にもはみ出るばかりの状況であつたため、(記録一四四七丁)被告人としてはかねがねこれらの廃品を早急に処理処分する必要を感じていたが前記会計法上の建前に従つて右廃品の処理を前記事務所長や農林省本庁に申請して行うとすれば数ヶ月を要し、(記録一七二三丁)その間盗難に逢うおそれもあり、また手続も煩に堪えず、ひいては右船舶の修繕工事や新たな年度に入つている干拓建設工事の遂行にも支障をきたすおそれもあると感じ、なお被告人は右廃材を黛に売払うことに決定した際、前記干拓事務所の高村機材課長に対しその可否を問合せたところ、同課長から「正当な理由があればたとえ価格が五万円を超える廃品であつてもこれを形式上被告人の処分権限の範囲内になるよう適当に分割した上被告人の専決で処分することが許される」旨の回答をえたが被告人としては以上認定の盗難の虞れや船舶の修繕工事や干拓建設工事の遂行上の障碍などは、右回答にある「正当な理由」に当ると考えていたものと窺われる。かたがた右廃品の処分は要するに不用品の取片付でありそれほど厳格な手続によらないでも後日上司の了解を得られるであらうとの考慮も加つて、いわば機宜の措置として前記の如く形式上分割した上自己の専決処分で右黛に払下げることにしたというのが、被告人の本心であつたと思われ、被告人において黛の利益を図る目的をもつて右(ロ)の権限逸脱を犯したということは認めがたく、もとより右の点につき、被告人には任務違背の認識はなかつたものと認められる。

第二、加重収賄罪について。

一、別紙記載の公訴事実第二の一、二のうち先ず金一万円収賄の点について検討する。

被告人が右公訴事実記載の日時、場所において前記黛から菓子箱及び寿司折各一箱を貰つたことは後記認定のとおりであるところ、検察官は、右の際、千円札一〇枚が右菓子箱の包装紙の間に挿入されて授受された旨主張し、これに対し被告人は検挙以来終始これを否認し続けている。ところで検察官は右一万円の授受についての主要な証拠として黛の第八回公判期日における供述記載を挙げており、それはすべて検察官の前記主張に全面的に沿うものであるが、黛は第一五回公判期日においては前言をひるがえし、被告人に一万円を渡したということは全く虚無の事実であると述べている。そこでまず黛の右一万円贈賄の件についての供述の経過などをみるに、黛の前掲証言等によると、同人は昭和三六年四月下旬頃以来農林省事務官館岡俊夫に対する贈賄等の容疑で秋田署に逮捕勾留されていたが、その間当時巡査部長であつた藤原清一郎の取調をうけ、同人に対し初めて本件一万円贈賄の事実を自白した。その後黛は検察官に対しても右自白を繰返し、次いで右事実その他で当裁判所に起訴されるや、その第一回公判期日においても右事実を認め、又前記当公判廷第八回公判期日における証人尋問に際しても右自白どおりの証言をした。しかしその後、同人は当裁判所に対し、右供述は全くの偽証であつた旨及び同人が当時新聞紙上で所謂吉田老人再審無罪事件に関する記事をよんで今更ながら偽証の罪の恐しいことを知り、是非真実を明らかにするため法廷に喚問をうけたい旨の上申書(記録一一五一、一一五二丁)を提出したうえ、当公判廷第一五回公判期日に出廷し、従前の供述を全面的に飜したのである。

ところで黛が右藤原巡査部長に対し初めて本件一万円贈賄の事実を自白した事情については、黛の当公判廷第一五回公判期日での供述を要約すると、「自分は最初館岡事務官に対する贈賄容疑などで警察署に勾留され取調をうけたが、その際藤原から干拓建設関係農林省の上層部のものに金銭を贈賄したことがあるのであろうといつて再三再四追及された。自分がこれを否認すると藤原は、自分が小林正雄を介し加藤雅助から廃品の転売代金の前渡金として三万五千円を受取りながら、加藤に対し廃品の引渡をしなかつた事実を持出してきて、藤原は、これは完全な詐欺罪である、詐欺罪は懲役一〇年で重いが贈賄は軽い罪である、若し農林省上層部の者に金銭の贈賄をしたことを述べてくれれば、右三万五千円の件について加藤と示談できるように取計らつてやるが、そうでなければ詐欺罪を立件する、というので、遂に自分もこれに屈し、全くありもしないことであるが、平原所長に対し金一万円を贈賄したとの虚偽の供述をした。自分が右の自白をしたところ、藤原は自分の目の前で、加藤雅助の前記詐欺被害事実についての供述調書を破りすててくれた。」というのである。

右のような黛の証言については、右藤原は当公判廷においてこれを否定する趣旨の証言をしているが、その証言内容は、例えば、「黛が本件一万円贈賄の事実を自白した際、自分の方から黛に対し誘導的な質問を向けたことは全然ない。黛は何んでもべらべらしやべる性格の男であつて、本件一万円贈賄の事実も黛の方から全く自発的に自白したのである。」というような、どうみても捜査の実情に合うものとは受取りがたい、お座なりの供述であつたり(記録一二三二、一二三九丁裏)、又、弁護人からの「証人は黛の面前で加藤雅助の供述調書を破つてみせたことはないか。」との、藤原にとり記憶上紛れもないと思われる事項についての質問に対しても、単に「記憶にありません。」と供述するだけであつて如何にも自信のない要領をえないものであつて(記録一二二二丁裏、一二一七丁)、右藤原の証言に対しては充分な信用をおくことができない。のみならず黛の前掲証言に現われた加藤雅助の当公判廷での証言等によれば、黛が右藤原の取調をうけていた当時、加藤も、同人が小林正雄を介して黛に金三万五千円を渡したことに関し、藤原から右小林、黛の詐欺的行為の被害者として調べられ、その供述調書まで作成され、かつ加藤としては初めから右詐欺事件につき告訴するつもりでなかつたのに、藤原から右三万五千円の件は詐欺になるから告訴してはどうかとまでいわれたりしたが、結局右詐欺事件は送検もされず、うやむやになつたことが認められ、黛の前掲証言に沿う事実のあつたことが窺われる。

以上の証言や事実に、藤原の前掲証言の一部、弁護人提出の昭和三八年九月三〇日付朝日新聞紙の記事その他から認められる、右藤原が黛の取調後、職務上の規律違反のかどで懲戒免職されかつ特別公務員暴行陵虐罪で起訴されたものであつて、その行状、品性などに照し、黛の前提証言中に現われているような違法な取調をしかねない人物であると疑われること等を彼此綜合すると、黛は藤原から黛の前記証言に現われているような不法な取調をうけ、八郎潟干拓建設関係の農林省上層部に対する金銭贈賄の事実を自白しなければ詐欺罪で処罰するというようなことをいわれて、心にもなく本件一万円贈賄の件を供述したのでないかと強く疑われるのであり、黛の警察官に対するこの点に関する供述には充分な信用をおくことができない。

もつとも黛の警察官に対する供述は信用できないものとしても、黛の検察官の取調に対する供述や、更に起訴後の当裁判所での取調に対する供述や証言の信用性は別個の問題であるというかも知れない。しかし、館岡俊夫外二名に対する昭和三七年五月二三日付判決謄本などによれば、黛は、当時、本件一万円贈賄の件の外に後記の本件被告人に対する饗応接待の罪及び同じく農林省干拓建設関係の館岡事務官や秋田県庁吏員中山不二美に対する合計九回にわたる総額約二〇万円の金銭贈賄の罪並びに右館岡等との共謀による銅線などの窃取の罪など多数の余罪についても検察官の取調をうけ、かつこれら多数の訴因について当裁判所に起訴され訴追をうけていたことが明らかであるところ、かように多数の容疑事実について取調又は訴追をうけている被疑者又は被告人としては仮りに右多数の容疑事実のうちの一部に無実のものがあるとしても、それについて一旦警察官に対し自白した後は、これに心理上の拘束感を覚えて、その後行われる検察官の取調に対しても、さらに起訴後裁判所における取調などにおいても、従前の自白を飜えそうとせず、只管検察官などに迎合して、虚偽の供述を繰返すことは、よくありうることである。本件一万円贈賄の件についても、黛は右のような心理から、検察官に対する取調や当裁判所での取調に際しても、同様の虚偽の供述を重ねたのではないかと疑われる。黛は当公判廷第一五回公判期日において以上の供述を飜すに先立つて、前記のように当裁判所に対し、上申書を提出し、又これと前後して本件の被告人に対しても、「一万円贈賄の供述をして以来貴殿をまともに見ることができず、心痛していたが、吉田翁の記事をみて真実を述べなければいけないと決意し云々」という趣旨の手紙を送つたりした事実が認められる(記録一二〇一丁)が、右上申書の中の「自分を少しでもよくするために他人に罪をきせることは許されない、人間の屑であり最高の罪人かと思つて参りました。」というのは、同人が前記のような捜査官に対する迎合の気持から偽証を重ねてきたことに対するざんげの念を示すものではないであろうか。又右手紙や前記証言中の「虚偽の供述以来貴殿をまともに見ることができず心痛し云々」とか、「名古屋高等裁判所での吉田翁の裁判の結果を新聞で見て私は良心に責められ、(中略)仮りに偽証に問われてもよいと思い真実を述べようと考えた。」(記録一一六九丁)「一生苦しむよりはと思つたのです。」(一一九〇丁)というのも、一方において刑事訴追による脅威と不安にさらされ、他方において偽証による良心の苛責になやまされる悲痛な心情をほうふつさせるものであり、同人のこれらの言葉こそまことに真実性にあふれたものと認めらるのである。

黛の本件一万円贈賄の件についての当公判廷第八回公判期日での証言記載等はいずれも信用することができない。而して他に右金一万円贈賄の事実のあつたことを確認するに足る証拠はない。

二、前掲公訴事実中、前記金一万円収賄の点を除くその余について検討する。

被告人が黛武信と右公訴事実記載の日時に同記載の銀鍋及びバー二軒で飲食をともにしたこと、被告人が帰宅の際に黛から菓子折及び寿司折各一箱を貰つたこと及び右飲食等の代金は黛により即日支払われたことは本件証拠上明らかであり、しかして黛の当公判廷第八回公判期日における証言記載などによれば、黛としては当時被告人から前記廃品の払下に関し種々便宜な扱いをうけたものと信じ、その謝礼の趣旨で被告人を饗応接待しようとの意図をもつていたことはこれを窺うに充分であり、同人が右銀鍋やバーでの飲食代金を支払つたのも、かような意図からであつたと認められる。

そこで被告人においても右公訴事実記載のような趣旨で右飲食などの提供をうけたかどうかについて検討するに、被告人の司法警察員や検察官に対する供述調書謄本などによれば、一応右の問題はこれを積極に認めるべきもののように見える。

併しながら更に仔細に検討すると、(一)被告人の右供述調書中には、被告人の供述として被告人が前記廃品の払下に関し黛のため種々不正な方法で便宜を図つてやつたのでその謝礼として右飲食物などの提供がなされたものと思う旨の記載があるけれども、前記背任罪の成否の検討をしたところで詳細に説明したとおり、当時被告人自身としては右廃品の払下に関し格別黛の利益を図る目的で不正な行為をしたというまでの認識があつたとは認めがたいのであるから、被告人の右供述記載は事実に合致しないものであり、これに充分な信用をおくのは相当でないと思われること、(二)、また黛の当公判廷第八回公判期日における証言記載及び同第一五回公判期日における証言、被告人の当公判廷における供述又は供述記載によれば、被告人が黛と右銀鍋で飲食するようになつたのは、右飲食をした日の前日頃、被告人が黛から八郎潟干拓建設東部事業所長を紹介して貰いたい旨及び右紹介のついでに晩酌代り程度の食事をさしあげたい旨言われたので、これを承諾し、偶々同月二〇日に秋田市所在前記八郎潟干拓建設事務所に被告人や右東部事業所長等の参集する用件があつたので、右の日に右紹介の労をとつてやる旨約したという経緯からであつたこと、ところが、当日になつて右東部事業所長が右事務所にこれないことになつたので、被告人はその事情を黛に伝えるとともに右の次第で被告人自身も右飲食の席を辞退したい旨申入れたが、黛から既に銀鍋に席を予約済みであり被告人一人でも出席して貰いたい旨言われたので、被告人としても今更これを断りきれず結局単独で銀鍋に赴いて黛と飲食をともにした次第であつたことが認められ、この事実に黛が当公判廷第一五回公判期日での証人尋問に際し、被告人が右銀鍋での飲食を終えて帰らうとした際、東部事業所長を伴うことができなかつたので、右飲食代金の一部を後日被告人自身にも支払わせて貰いたいという趣旨のことをいつていた旨証言していること(記録一一七七、一一九九丁)や、その他被告人の当公判廷での供述又は供述記載を合せると、被告人は右銀鍋での飲食をした際、飲食代金について自分も応分の負担をするつもりであつたと思われること、殊に被告人の前掲供述又は供述記載によれば、被告人は黛から右東部事業所長の紹介の依頼をうけるよりも数日前に、黛から被告人と前記廃品払下の事務を担当していた南部事業所庶務課長及び同機材課長の三名を料理屋に案内したい旨の申出をうけたが、その際被告人は別段の用件もなく業者から酒席に案内をうけるのは、疑惑を招くことであるとして、これを断つたことがある事実が認められる(記録一七二九丁裏)が、この事実とも照し合せて考えると、被告人が最初黛に対し飲食の提供をうけることを承諾したのは前記のように特に東部事業所長を紹介してやるという用件があつたからであるが、その後前記のような事情で右紹介の労をとることができないこととなり結局何んの用件もなく黛から御馳走をして貰うことになつたので、これでは済まないとして右飲食代金の応分な負担を申出る気持になつたとみるのは決して不自然なことでないと認められること、(三)また前記バー二軒で飲食をした事情については、被告人の当公判廷における供述又は供述記載などによると、被告人は銀鍋での飲食を終えて帰宅しようとしたところ、当日被告人が乗つてきた役所の車の運転手が車をおいたまま附近の映画館に出かけてまだ戻つていなかつたこと、それで黛から運転手が戻るまでの間の暇つぶしにと誘われてバーに入つたことが認められる。そして右事実に黛の検察官に対する六月五日付供述調書謄本、証人堀部梅子、太田百合子の各証言調書によれば、被告人、黛等は最初のバーでは一時間位いて僅かビール二、三本位とつまみ二皿位及びジュース一杯を喫しただけであり、次のバーでも数十分いて同じくビール一、二本とつまみ二皿位をとつただけであつたこと、殊に二軒目のバーでは被告人は僅かビールをコツプに半杯位口にしただけであつたことが認められ、かような飲食の内容から考えても、右バー二軒での飲食は単なる暇つぶしを目的としたものにすぎないものであり、これをもつて被告人の職務に関する謝礼の趣旨で饗応接待をうけたなどとは到底考えられないこと、(四)さらに前記菓子箱、寿司折を貰つた点についていえば、前掲各証拠によれば、右菓子箱は子供さんえのお土産物として渡されたもの、又寿司折の方は前記バーに入つていた際、黛から更に寿司屋に案内したい旨いわれたのを被告人が辞退したところ、それでは奥さんえのお土産物として黛が注文して渡してくれたものであることが認められるが、右の事情などに照し、これらはいずれも社交上の儀礼程度のものにすぎないと認めるのが相当であること、その他、(五)前掲各証拠と証人石田健四郎、奈良一子の各証言調書によれば、右銀鍋での御馳走の内容は、刺身、フライ物、吸物などの三、四品とあとはお通しもので、その価格は一人前千円か千数百円位のもの、酒は全部で銚子八本位であつて、飲食の時間は二時間足らずであり、その間芸者一人が呼ばれたが、それも初めから、呼んでいたのではなく、被告人の前掲司法警察員に対する五月三一日付供述調書謄本(一一枚の分)によれば、「初めは女中が一人で御馳走を運んだり、酌をしたりしていたが、黛が女中さん一人では忙しからうと言つて芸者を呼んだ。」というような状況で呼んだものであり、(記録一六六七丁)、又右飲食の際の被告人、黛の話題もありきたりの雑談や黛が会計検査院の課長連と懇意であるというような自慢話が主であり、これらを全体として眺めてみても、饗応接待の座としては余りに低調なものであつたと窺われることや、更に被告人の当公判廷での供述又は供述記載によれば、被告人は当時黛を前記昌和株式会社の出張所長であると思い、かつ右会社の社長はもと何省かの次官までもしたことがあり、黛自身も前記のように会計検査院の課長級のものと懇意であるとか以前に大蔵省に勤めていたなどと聞かされ、黛は相当顔の広い信用すべき業者であると信じ、黛に対し比較的親しい感情を抱いていたことなども窺われ、

以上の諸事情を彼此考え合せると、被告人としては、右飲食物等の提供をもつて自己の職務に対する謝礼というようには意識せず、たんに黛との個人的交際としての会食であると考え、かつ右銀鍋での飲食代金については後日自分も応分の負担をしたいと考えていたものと窺われるのである。而して右各認定に反する証拠はいずれもたやすく信用できず、他に被告人が黛から職務に関する謝礼の趣旨で前記のような饗応接待等を受けたものであることを認めるに足る証拠はない。

第三、結論

以上の判断に従えば、本件公訴事実中、(一)先ず背任の点については、被告人が「呑竜」の廃材を昌和株式会社秋田出張所員であつた黛に払下げ、その過程で国が損害を被り、あるいは少くとも損害発生の危険を被つた(予備的訴因)事実はこれを認めることができるが、被告人に黛の利益を図る目的があつたこと、被告人の行為がその任務に背くものであること、あるいは被告人が黛に払下げることが自己の任務に違背するという認識をもつていたということはいずれもこれを認むるに充分な証明はない。(二)次に、加重収賄の点については、被告人が黛から公訴事実記載の如き(但し金一万円の点を除く)饗応等を受けたとの外形的事実はこれを認めることができるが、被告人が、黛の利益を図る目的で自己の任務に背き「呑竜」の廃材を不正に同人に払下げたことの謝礼としてその提供を受けたこと及び一万円授受の事実を肯認するに足る充分な証明はない。よつて刑事訴訟法三三六条により主文において無罪の言渡をする。

(裁判官 三浦克巳 渡部保夫 本郷元)

(別紙)

公訴事実

被告人は昭和三五年四月頃から男鹿市船越八郎谷地所在仙台農地事務局八郎潟南部干拓建設事業所に同事業所長として勤務し、国の為工事用資材その他同事業所で使用する諸物品の管理及び不用物品の売却処分等に関する事務の全般を統轄している農林技官であるが、

第一、昭和三六年三月下旬頃前記八郎潟南部干拓建設事業所において、自己が処理する浚渫船「呑竜」の定期整備工事により産出した鉄材等の廃品を黛武信に対して売払いするに際し、正式には右廃品について不用処分決定並びに売払決定及び売払契約等の手続をなした上でなければ売払い及び引渡し等をなすべきでない任務があるにも拘らず、同人の利益を図る目的をもつて右任務に背き、何ら前記正式の手続をとらず、しかも自己の売払処分権限を越えて同人に対し不正に前記廃材の売払いをなし、同年四月初旬頃から同月二二日頃までの間数回に亘り同事業所において同人に対し、前記廃材を実際には約二七噸であるのに拘らず、約一九噸であるとして引渡し、因つてその頃国に対し右重量の差約八噸金額にして九万六千円相当の損害を与え、

(予備的訴因)

昭和三六年三月下旬頃前記八郎潟南部干拓建設事業所において、自己が処理する浚渫船「呑竜」の整備工事により産出した鉄材等の廃品を被告人黛武信に対して売払いするに際し、正式には物品管理法第二八条の規定により右廃材について不用処分決定をし、かつ、契約担当職員に対し、売払いのため必要な措置を請求し、売払契約等の手続を為し、さらに、予算、決算及び会計令にしたがい売却代金完納後でなければ現品引渡をしてはならない職務上の義務があるにもかかわらず、同人の利益を計る目的をもつて右任務に背き、なんら前記正式手続を取らず、代金を完納せしめないうちに部下職員に命じて、同年四月初旬頃から同月二二日頃までの間数回にわたり同事業所において、同人に対し、前記廃材約二七噸価格約三二万四千円相当を引渡させもつて本人である国に対し、同額の実害発生の危険を生ぜしめて財産上の損害を加え、

第二、一、同月二〇日頃秋田市川反四丁目料理屋「銀鍋」こと石田健四郎方外二ヶ所において、黛武信から前記廃材の売払いに関して不正な方法で同人に便宜を計つてやつたことの謝礼の趣旨で提供されるものであるとの情を知りながら、日本酒、ビール、料理等(価格合計金約四千円相当)の饗応接待を受け、以つて、自己の職務に関し賄賂を収受し、

二、同日同市土手長町末丁秋田相互銀行本店前路上において、同人から前記一記載の趣旨で提供されるものであるとの情を知りながら現金一万円並びに菓子折一箱及び寿司一箱(価格合計八百円相当)の供与を受け、以つて、自己の職務に関し賄賂を収受し

たものである。

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